「海の道、空の道、追憶の道」に寄せて

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海の道、空の道、追憶の道

最初にこの原稿を読んだとき、僕は静かに画面を閉じ、しばらく身動きができずにいました。
最後の数行を読み終えたとき、静かに嗚咽していました。

 

——本当に、田中泰延ひろのぶさんにお願いしてよかった。

そう心から思いました。

泰延さん(※)のことを最初に知ったのは、当時のTwitter(現✕)でした。
「なんだか毎日面白いことをつぶやいている人がいるな」と、ひとりのフォロワーとして気になっていた存在でした。
※本記事では、日ごろから親しみと敬意を込めて呼んでいる「泰延さん」という呼称で統一させていただきます。

ある日、そのことを知人に話したところ、驚いたことに、その知人が泰延さんと同じ広告会社で働いており、しかも近しい部署でお仕事をしていたとのこと。思いがけない縁に背中を押されて、「一度お会いできませんか」とお願いをし、大阪の居酒屋で初めて泰延さんと対面する機会をいただきました。

そのとき、泰延さんが着ていたTシャツの胸元には、はっきりとこう書かれていました。

“ IT’S NOT YOU ”

「君じゃないって、拒絶されているんだろうか……」。
そう思って、変な緊張感が走ったことを今でも覚えています。

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その出会いをきっかけに、僕は京都の大学広報のお仕事で、泰延さんに原稿をお願いすることになります。
そこから2年間、計50本以上のコンテンツ制作をご一緒させていただきました。

毎回、学生や教職員へのインタビューをもとに泰延さんが紡ぎ出す文章は、ただ事実を伝えるだけでなく、その人自身の輪郭や息づかいまで描かれているようで、原稿が届くたびに感動していました。

そして、誰よりも早くその文章を読めることが、密かな楽しみでもありました。

その後、僕が生まれ故郷の広島県尾道市に戻ると決めた際、最後に大阪でお会いしたときにひとつだけお願いをしました。

「新しい事業をするときに、記事を書いてください」

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あれから2年。コロナ禍もあり、計画が思うように進まない時期もありましたが、2022年ようやくその願いが叶いました。そして、さらに3年。泰延さんご自身が体調面でも厳しい時期を過ごされたと後に知り、その中で筆をとってくださったことに、言葉では言い尽くせない感謝の気持ちがあります。

この原稿は、ただの紀行文ではありませんでした。
泰延さんがご自身の人生と、僕のルーツ、そして尾道という土地に向き合いながら、時間をかけて育ててくれた、ひとつの“作品”でした。

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海の道、空の道、追憶の道

 

尾道は、僕にとって「ふるさと」と呼べるかけがえのない場所です。
幼いころを過ごしたこの町に、40歳を目前にして再び家族とともに戻ってきました。

祖父母は漁師をしており、伯父や伯母もつい最近まで海に出ていました。
尾道水道は、まるで川のように町に寄り添いながら流れ、そこにはいつも船と人の往来がありました。季節ごとにさまざまな魚が揚がり、商店街では獲れたての魚をリヤカーに乗せて売り歩く光景が当たり前にありました。

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でも、その風景は少しずつ変わってきています。

高齢化、後継者不足、気候の変動——。
それでも、今も尾道の海には豊かな命が息づいていて、毎日海へ出る漁師たちの技と誇りが続いています。

僕はこの土地に戻ってきてから、あらためて尾道の海や人々に教えられることがたくさんありました。
たとえば、地元の漁師さんが「魚は、獲って終わりじゃない。締め方、扱い方、全部にその人の仕事が出るんよ」と語ってくれた言葉。海の恵みと向き合う、その背中に、土地の文化が詰まっていることを知りました。

泰延さんの原稿には、そんな尾道の空気が静かに、でも確かに流れていました。
旅人の目線を通して、僕も見落としていた風景に気づかされました。
この町のことを、もっと多くの人に知ってほしい——そう思わせてくれる記事でした。

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泰延さんの原稿を読んで、僕は尾道のことをあらためて「学び直した」ような気持ちになりました。

尾道には、千光寺、西國寺、浄土寺といった歴史ある寺院があり、海と山が迫る独特の地形の中で、自然と人の営みが複雑に交差しています。僕にとっては馴染みのある風景でも、泰延さんの文章を通すことで、そこに文学や歴史、記憶が重なる「層の厚さ」に気づかされました。

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記事の中では、林芙美子さんや志賀直哉さん、小津安二郎監督といった、尾道と関わりの深い方々のことにも触れられていました。僕は正直、そこまで深く意識したことがありませんでしたが、あらためてその関係を知ることで、この町が多くの人に何かを残してきた場所であることを実感しました。

また、泰延さんご自身のご家族の話も重ねて綴ってくださっていたことで、尾道の風景がより身近に、そしてどこか静かな重みを持って感じられました。

僕は尾道に暮らしていて、日々の仕事や生活の中で見慣れた場所を当たり前のように通り過ぎてきました。けれど、泰延さんの視点を通して見つめ直すことで、ふだん何気なく見ている景色が、特別なものとして立ち上がってきたのです。

この町の来し方行く末を、外からの目が丁寧に照らしてくれたことで、僕自身も心のどこかで深く納得するような感覚がありました。

こんなにも奥深く、美しく、素敵な町に、僕はいま暮らしているのだ。
そのことが、言葉にならない誇らしさとして、静かに心に残っています。

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僕は今、尾道で家族と暮らしながら、いくつかの仕事に取り組んでいます。
その中のひとつとして、地元の漁師さんと協力し、尾道で揚がる真鯛を使った炊き込みご飯をつくり、お届けするという取り組みを続けています。

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天然真鯛の炊き込みご飯(3合炊き)

取り立てて大きな事業というわけではありませんが、目の前にある海と、人と、季節の変化を感じながら、少しずつ手を動かしてきたものです。

地元の漁師さんと話していると、あらためて尾道という土地の豊かさを実感します。
海のこと、魚のこと、天候のこと、昔の町のこと。話は尽きません。

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でもその中には、課題もたくさんあります。漁師の数が減り、技術が継承されづらくなってきていること。自然環境の変化とともに、魚の状態も少しずつ変わってきていること。

僕にできることは大きくはありませんが、この町の海から揚がる魚を、できるだけ丁寧に扱って、きちんと美味しく食べてもらえる形で届けること。
そのことが、尾道の海と人の営みに、少しでもつながっていくのではないかと思っています。

泰延さんの記事にあったように、尾道はかつて多くの文化人に愛された町であり、今も変わらず独自の風景と空気をたたえています。
その中で、こうして日々の暮らしの中で町と関わる時間を持てることは、何よりありがたいことだと感じています。

自分にできることは限られていますが、この町とともにあること——
その時間や関わりの中に、きっと意味があるのだと思っています。

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泰延さんが尾道を訪ねてくださったのは、2022年のことでした。
そこから、3年という時間が経ちました。
世の中も、僕たち自身も、あのときとは少しずつ変わってきたと思います。

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それでも今回、こうして原稿が届いたことは、僕にとって忘れられない出来事となりました。
泰延さんがご自身の人生と重ねながら、尾道という町と真摯に向き合ってくださったことに、心から感謝しています。

この記事が、多くの方にとって、尾道という町を知るきっかけになればうれしく思います。
もしどこかのタイミングで、ふと「行ってみようかな」と思っていただけたなら、これ以上の喜びはありません。

僕はいま、尾道で暮らし、働いています。
日々の中で思うのは、この町にはまだまだたくさんの魅力が眠っているということです。
それは風景であったり、人の営みであったり、言葉にしきれない空気感のようなものかもしれません。

この文章が、そんな尾道の空気の一片でもお届けできていたなら——。
それが何より、ありがたいことだと感じています。

 

最後に、この原稿の完成にあたり、多くの方の支えがありました。
泰延さん、そして、ひろのぶと株式会社の上田豪さん加納穂乃香さん広瀬翼さん加藤順彦さん、最初から記事のことを気にかけてくださったやまだけいこさん、ありがとうございました。

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以下は、僕が以前、泰延さんと一緒に制作させていただいた記事のアーカイブです。
現在は国立国会図書館のウェブアーカイブ(WARP)に収録されており、当時の文章を読むことができます。
ご関心ある方はぜひご覧ください。

 

●田中泰延さんの記事

●さえりさんの記事

●カツセマサヒコさんの記事

●みんなの集大成

 

 

ひろのぶと株式会社のみなさんが総力をあげて特設ページを開設してくれました。
ぜひ、ゆっくりとご覧ください。


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