海の道、空の道、追憶の道
⽥中泰延
写真 ⽥中泰延 / 鈴⽊創介
尾道へ、帰った。
鈴⽊創介さんの待つ尾道駅に降り⽴ったのは、2022年2⽉のことだった。
彼は、ここ尾道で「天然真鯛の炊き込みご飯」をつくり、売っている。
尾道の海で獲れる鯛のことを知ってほしい。
なにより、尾道の町を旅して感じたことを書いてほしい。
鈴⽊さんはそう⾔って、私を招いてくれたのだ。
鈴⽊さんと私は、⼤阪、京都で何年かにわたり共に仕事をした。
しかし、彼が尾道⽣まれ育ちだということを知ったのは、彼が⽣まれ故郷へ戻って地場の漁業と組んで商品をつくりはじめたときだった。
おの、みちへ
着いてすぐ、⼩⾼い⼭の頂上にある展望台へ案内された。
尾道の町と向島との間、尾道⽔道は川のような幅の海だ。遠くに墨絵のような瀬⼾内の島々が⾒える。
河のようにぬめぬめした海の向うには、柔らかい島があった。
これは、林芙美子が小説『風琴と魚の町』の中で、はじめて尾道水道を目にしたときの描写である。のちに『放浪記』で知られる林芙美子は明治36年、山口に生まれた。さまざまなものを売る行商人だった父に付き従い、芙美子と母は各地を転々とする。一家が尾道に住むことにしたのは、芙美子が13歳の時だった。彼女は19歳までの多感な時期を尾道で暮らすことになる。
自伝的短篇である『風琴と魚の町』には、主人公である少女の両親のこんな会話がある。
「ここはええところじゃ、駅へ降りた時から、気持ちが、ほんまによかった。ここは何ちうてな?」
「尾の道よ、云うてみい」
「おのみち、か?」
「海も山も近い、ええところじゃ」
尾道という名はどこからきたのか。
1825年に書かれた安芸国広島藩の地誌『芸藩通志』には
「尾道の名義詳ならず おもふに此地もとは海涯の地甚狹く 山足にそひて往來すれば 山の尾の道と云を以 名づけしにや」
とある。山の尾根に道があったことから名付けたのだろう、というのが定説になっている。司馬遼太郎は、『街道をゆく』のなかで「澪の道」という説を唱えた。「澪」とは、船の航路、すなわち水の通り道のことを指す。
山であれ、海であれ、いずれにせよここは隘路を人が行き交い、出会う地であった。
海が見えた。海が見える。
五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい、
汽車が尾道の海へさしかかると、
煤けた小さい町の屋根が提火のように、
拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える。
山は爽やかな若葉だ、緑色の海向こうに
ドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。
私は涙があふれていた。
『放浪記』の冒頭、
私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。
と林芙美子は書き出すが、6年を過ごした尾道には格別な思いがあった。
「山の朱い寺の塔に灯がとぼった。島の背中から鰯雲が湧いて、私は唄をうたいながら、波止場の方へ歩いた。」
(『風琴と魚の町』)
父の尾道
私の祖父は尾道の船舶ドックで働き、その後、向島に養鶏場と鶏肉店を開いた。大正の頃である。
父は昭和のはじめ、向島で生まれ、鉄道省の糸崎機関区で蒸気機関車の機関士となった。
父は生前、いつもこの町のことを話した。
私は2022年、祖父、そして父の見た風景を辿り、なにかを綴る。
はずだった。
あれから3年の月日が流れてしまった。すぐに書きますと鈴木さんに約束した私は、世界を覆ったCOVID-19に感染し、文章を綴る機能をかなり長い時間、失ってしまったのである。
世界は、この3年の間で大きく変貌した。パンデミックの脅威は過ぎ去り、後遺症に苦しんだ私も少しづつ回復してはいたが、考えていることを順序立てて書く力が戻らない。依然として執筆がままならないまま、2025年を迎えた。
いよいよ書き出そうとしても、頭の中に霧がかかったようになる。
この3年間で世界が大きく変わったことに、人工知能の実用化があった。私は、「チャットGPT」に、「広島県尾道市を旅した紀行エッセイを2000文字で書いてほしい」と書き込んだ。
坂と猫と海のまち──尾道紀行
新幹線を降りて在来線に揺られ、小さな駅にたどり着くと、潮の香りがふわりと鼻をかすめた。そこが尾道だった。広島県の東部に位置する港町。観光地として知られているものの、その名前にどこか懐かしさが漂うのは、映画や小説の舞台として度々描かれてきたからだろうか。それとも、町そのものが醸す素朴で優しい空気のせいかもしれない。
駅を出てすぐ目の前に広がるのは、瀬戸内海の穏やかな水面。そしてその向こうにぽっかり浮かぶ島々。船が静かに岸を離れ、音もなく水を割っていく。海沿いの道を歩いていると、地元の人が「こんにちは」と声をかけてくれた。旅人には少し照れくさいが、心が和む。
尾道といえば「坂の町」。その名の通り、まちの背後には急な斜面に張り付くように家々が並び、細い路地が縦横無尽に走っている。石段を一歩ずつ登るたび、視界が開けていく。息を切らせて登った先には、千光寺が佇んでいた。古刹の境内から見下ろす町並みと海。潮風が髪を揺らし、遠くに渡船が行き交うのが見える。まるで時が止まったような感覚に包まれる。
千光寺の周辺には「文学のこみち」と呼ばれる小道がある。正岡子規や林芙美子など、尾道にゆかりのある文人たちの詩が石碑に刻まれ、山肌に沿って点々と並ぶ。彼らもまた、この風景に心動かされたのだろうか。
石碑のそばには猫が寝そべっていた。近づいても動じる気配はない。尾道は猫の町としても知られている。人懐っこい猫たちがあちこちで日向ぼっこをしており、歩くたびに出会いがある。
坂を下り、ふたたび海辺へ戻る。昔ながらの商店街には、古民家を改装したカフェや雑貨屋が点在し、歩くだけで楽しい。レトロな看板、古びた木製の扉、ぎしぎしと鳴る床。けれど、それがかえって新しく感じられるのはなぜだろう。
あるカフェで一休みし、尾道名物の「尾道ラーメン」を味わった。鶏ガラと魚介のだしが効いた醤油スープに、背脂がぷかぷかと浮かんでいる。素朴だが奥深い味わいに、身体がほっと温まった。
午後、渡船に乗って向島へ渡る。わずか数分の船旅だが、旅情は一気に高まる。船から見える尾道の町並みは、先ほどまで自分が歩いていた場所とは思えないほど、風景画のようだった。向島では自転車を借りて、少しだけ「しまなみ海道」を走る。海と空がひとつになったような青に包まれて、思わず深呼吸した。
夕暮れ時、ふたたび尾道の町へ戻り、海沿いのベンチに座る。西の空が橙から藍へと変わりゆく中、猫が膝にぴょんと飛び乗ってきた。
どこか人懐っこく、そして旅人を受け入れる余裕のあるこの町は、まるでふるさとのようだ。遠くから汽笛が響き、町が夜の帳に包まれていく。
旅というものは、必ずしも遠くへ行くことを意味しない。心の奥底にある「懐かしさ」を見つける行為なのかもしれない。尾道は、そんな旅の本質を思い出させてくれる場所だった。
これが、わずか数秒でAIが返してくる文章なのだ。……おそろしい。人工知能は、紋切り型の文体と情報をインターネットから収集し、ただちにこれを書き上げる。
だが、こんなものではない、私には、私のただ一度の人生で、私だけが感じたこと、私だけが書けることがあるはずだ。
これは、私が感染症に罹患し、治癒してからのはじめて書く長い文章になる。
尾道大橋
父が国鉄を退職し、大阪に移り住み、高松生まれの母と出会ったことで、私は生まれた。
父は、大阪に暮らしても、心はいつも尾道の海にあったように思う。時に、尾道へ向かい、長い時は一週間を過ごした。
「でけたぞ」という言葉と共に、大阪に戻ってきた父の手にはいつも、描き上げた1枚の絵があった。
「流れがはようてのう、なんべんも死にかけたんじゃ」父が中学生の頃、泳いで渡ったこともあるという、尾道と向島の間の海。そこについに橋がかかったことに、父は喜んでいた。
父の遺言には、すこしでいい、大橋の上から骨を海に沈めてほしい、とあった。
私が投じた父のかけらは、いまもこの海の底にあるだろう。
私が育ったのは、普通の家庭ではなかった。
国鉄を辞し、大阪で占い師となって生計を立てた父の、私は庶子だった。だが、父は遅くにできた子である私を気にかけ、私も離れて暮らす父に会いに行くたび、強く愛情を受けて育ったと思う。
千光寺
鈴木さんが、子供の頃遊んだという艮神社を経て、ロープウェイで千光寺へ登る。
私は自らの境遇を、志賀直哉の『暗夜行路』を初めて読んだ時から、しばしばその主人公、時任謙作に重ね合わせることがあった。
志賀直哉は1912年、父との確執がもとで東京を離れ、半年ほどの間、尾道に滞在していた。彼は千光寺山中腹にある長屋に住み、そこで後に20数年を経て完成する『暗夜行路』を書き始めた。
物語は謙作が、自分は父の子ではないという秘密を知るところから始まる。この事実は、謙作の心に大きな影を落とす。
千光寺公園には志賀直哉の文学碑がある。そこには『暗夜行路』の一節が刻まれている。
六時になると上の寺で刻の鐘をつく。ゴーンとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰って来る。その頃から、昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を熔かしたような火が水に映り出す。
千光寺の坂を降りるとき、親子連れが見えた。私はその姿に、祖母に手を引かれて歩く幼き日の父を、そしてなぜか母に手を引かれて歩く自分自身を重ねた。
海と生きる
尾道の海と育った父は、大阪の街でも当然のように日々、魚を食べた。なかでも、鯛が好きだった。
スズキ目スズキ亜目タイ科の海水魚。鯛は、いつごろから日本人にとって。「魚の王様」といわれるほど大切な魚となったのだろう。
『古事記』の海幸彦、山幸彦の兄弟の話に、「赤海鯽魚」という魚が記される。その読みは「タヒ」であった。これがこの国の文献にはじめて登場する鯛である。
農林水産省のサイトは、『日本書紀』を引き、仲哀天皇の妃である神功皇后の船に多数の鯛が寄ってきたとの記述を紹介する。
鮮やかな赤い色と、これは江戸時代からというが、「めでたい」という語呂合わせも、慶祝事やハレの日の魚とされてきた理由にちがいない。
鈴木さんは、故郷尾道の真鯛をつかった炊き込みご飯をつくっているが、先に述べた神功皇后が、漁師がつくった炊き込みご飯に喜んだという伝承がある。
鈴木さんは、炊き込みご飯に使う鯛を、ある漁師さんから毎日仕入れているという。その人、藤川伸一さんにお話を伺う。
藤川さんは海へ出て40年以上、尾道漁業協同組合の代表理事組合長をつとめる。
「尾道の魚は、やっぱり餌が豊富でね。わしが獲る鯛は重さがある、身が詰まっとる、言われるね」
「獲るだけじゃないで。獲った後のね、締め方ね。そこに漁師の差が出るけ。そういうことをきちきちと丁寧にして、やっぱり美味しいってね、うん、まあ評判になってくるんだけど。どうやって美味しく食べてもらおうかと」
「うちの叔母が、藤川さんと一緒で、ここの漁師だったんです。 その叔母がみんなに振る舞っていた真鯛の炊き込みご飯の、レシピをもうそのままコピーして、冷凍してネットで通販しようと」
「昔は “ ばんよりさん ”、晩寄りさんいうてね、晩のおかずにとね、魚を手押し車で個人宅へ売りにいく漁師や、漁師の奥さんがおった。しかし、若い時はここにも漁師が300人以上おったと思うよね。 今は60人足らず……後継者も少なくなってきてね」
「漁業従事者の方が高齢化しているのがあって、そこをなんとかこう持続可能なものにしていくきっかけ作りができたらなっていうのがネット通販の『おのみち鮮魚店』を作った理由です。僕はずっとインターネットの事業をしてきたので、どちらかというと……こう、虚業と言われてしまう仕事なんですけど、虚業だって漁業と結びつけば」
「鈴木さんに鯛の大きさを指定されるけえ、それは難しいです(笑)。 難しいよ、 1匹獲るのに四苦八苦する時もある(笑)。いや、見えんもの獲りに行くわけじゃけ、置いてあるもの獲りに行くわけじゃないけ。本当そこはもう生き物との戦い。ほとんど獲ってきてるけど(笑)。でも、消費者に美味しい魚を食べてもらう。うん、これが一番だろう漁業は」
「田中さん、尾道堪能して帰ってってください。いつでもまた寄ってください。ええとこやけ」
鈴木さんが「尾道産天然真鯛の炊き込みご飯」をよそってくれる。藤川さんが獲った鯛を、鈴木さん自身が3枚におろし、骨を取り、具材や煮汁と一緒に冷凍する。炊飯器で炊けば、閉じ込めた香りが一気に広がる。
『放浪記』を
私は古里を持たない。
と書き出したはずの林芙美子は、物語終盤、詩とも歌ともつかない言葉を記す。
鯛はいいな
甘い匂いが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには父もあり母もあり
家も垣根も井戸も樹木も
浄土寺へ
尾道は、映画の町だといわれる。尾道出身の大林宣彦による「尾道三部作」「新・尾道三部作」、そして遺作となった『海辺の映画館――キネマの玉手箱』は記憶に新しい。
とりわけ、私にとっての尾道の映画は、1953年の小津安二郎『東京物語』だ。
尾道の老夫婦が、東京へ出ていった息子や娘、戦死した次男の妻を訪ねて上京する。
世界的に名高い同作だが、『東京物語』といいつつ、物語の冒頭と後半は尾道である。
老夫婦の家は浄土寺のすぐ隣にあり、特徴的な国宝・多宝塔もその姿が収められている。
浄土寺は616年に聖徳太子によって開かれたと伝えられる。その後、高野山に連なり、現在は真言宗泉涌寺派の大本山となっている。足利尊氏は1336年、九州へ下った際、浄土寺で戦運を祈願したという。
本堂と多宝塔は国宝、阿弥陀堂は国指定重要文化財だが、境内全体が国宝指定されている。境内全体が国宝なのは全国でも2つだけで、もうひとつは京都の清水寺である。
妻が亡くなったあと、笠智衆演じる父親が朝日を見つめ、死んだ息子の未亡人(原節子)と言葉を交わす。『東京物語』屈指の名シーンである。その舞台となった石灯籠は、いまも場所を変えて佇んでいる。
この映画にも特別な思いがある。
私は、父が生業とした仕事を継がなかった。生まれ育った大阪を離れ、東京で進学し就職した。その選択は正しかったのだろうか。私は親の愛に背いたのではないだろうか。私は老いていく父を見捨てたのではないだろうか。
上京して以来ずっと『東京物語』のなかの、東野英治郎演じる沼田と主人公・周吉との会話が耳から離れなかった。
「親の思うほど、子どもは、やってくれませんなあ。あんた、そう思わんかの? あんた、満足しとるんか」
「ああ、決して、満足はしとらんが。こりゃ、世の中の親ちゅうもんの欲じゃ。欲張ったら、キリがない。こりゃ、諦めなあかん。そう、わしは、思たんじゃ」
就職してしばらくして、60代後半となった父を東京観光に連れ出し、『東京物語』の通りのコースを辿った。私はその日、父の期待に反してひとり東京に移り住んだことを詫びた。
父は笑いながら、すこしだけ寂しい顔で、「ええんじゃ、お前は、……ええ線いっとる」と言った。
いま、私は尾道を訪れ、父が乗務していただろう蒸気機関車を思い浮かべながら、線路を見つめている。
西國寺
西國寺へ登る。
西國寺山(愛宕山)は、浄土寺山(瑠璃山)、千光寺山(大宝山)と並ぶ、尾道三山のひとつである。浄土寺は616年、千光寺の創建は806年。この西國寺は729年、僧・行基によって建立されたと伝えられる。
金堂と三重塔は国指定重要文化財とされ、町から見上げる堂塔のなかでもひときわ朱く目立つのがこの西國寺三重塔だ。
歴史の中で、これらの伽藍は他の寺と同じく何度も焼失し、しかしその都度、再建を遂げる。
尾道は寺の町である。中世から近世に至るまで、多くの豪商が競って寺社を造営し寄進した。
奈良時代から瀬戸内の交通の要衝であった尾道は、1168年、年貢積み出しのために蔵屋敷が建てられ、江戸時代には北海道と大阪を結ぶ「北前船」の寄港も始まる。
貿易と運輸の発達にともなって土倉・酒屋・問丸などの商人が富を蓄えた。貨幣経済で成功した富裕層には、儲け過ぎることへのうしろめたさもあったのかもしれない。豪商は功徳を得るために寺社を建て、伽藍を修繕した。寺社に寄進する彼らは「有徳人」と呼ばれた。尾道に現存する寺は25だが、往時には80以上あったという。
鈴木さんの子供の頃の思い出をひとつひとつ聞きながら、石段をひとつひとつ下る。
空が開け、ひとすじの道のような海が光っていた。
向島
渡船に乗り、父が生まれた向島へ渡る。
祖父が働いた向島ドックを過ぎる。
思えば、祖父は長年勤務したこのドックを辞職し、養鶏場を始めた。父は、国鉄を辞して大阪へ移り住んだ。
私は、親元を離れ東京で暮らし、そして24年間勤務した会社も辞めてしまい、ひとりで小さな会社を始めた。
それぞれの親は、そのとき、彼らの子にどのような思いがあっただろうか。
向島から望む尾道を描いた父の視線を思う。
祖父は、生きるためになにかを始め、新しい世代に命を遺した。父もまた、生きるために何かにあらがい、私はここに立っている。
私は祖父、父、そして私に連なる物質を構成している微粒子のようなものが、この海に育まれ、それが私の中に溶け込んでいるのだ、そんな感触を覚えた。
命が、生きようとして何かを始める、そのすべてのあらがいを、肯定できる気持ちになり、私自身を肯定された気持ちになった。
空から降りてきた夜が海に溶けてゆく。
尾道で書き始められた長編『暗夜行路』は、終結部、鳥取の大山が舞台となる。志賀直哉自身が投影された主人公・時任謙作はそこで、空を見つめながら、不思議な体験をする。
彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶け込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、-それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。
彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したというような事を考えていた。
物語は、尾道という海の道からやがて空の道へ至り、時任謙作は自然との一体感の中に恩讐を越え、時間を超える瞬間を迎える。
私は、『暗夜行路』を、読み返しながら眠った。
目を覚ますと、そこに父の描いた絵が掛かっている、と思った。
3年ぶりの尾道
2025年3月。鈴木さんにふたたび尾道へと誘われた私は、私たちになっていた。
ひとりで始めた会社には、仲間ができていた。
私は、あの3年前の尾道から、ずっと、なにも書けずにいた。
だが、それはきっと、今は物言わぬ、海の底の父に、私は生きようとして何かを始めたことを報告する日を、そして彼らの笑顔を見せられる日を、待っていたのだ。
「ええ線いっとる」
「尾の道の町に、何か力があっとじゃろ」
林芙美子 『風琴と魚の町』より